『美について』における美と自己理解について
プロティノス哲学における世界観は、一者からの流出ならびに一者への還帰によって成り立つものである。われわれすべての存在は、一者から流出してきたのであり、一者への還帰が目的とされる。それゆえわれわれは、一者への還帰を欲するのである。それをプロティノスは、ふるさとへの旅にたとえるのであるが、ふるさととは「われわれが昔いたところ、わが父君をおもわすところ」といわれ、これはつまり知性界のことである。この欲求運動は『美について』において、感覚的な美から美そのものへの上昇というプロセスとして描かれるのであるが、その運動についてプロティノスは次のように述べる。すなわち、この運動は地上の世界の移動に用いられるところの足や馬車、あるいは船などでもって行うのではなくして、万人がもちながら、わずかな人しか用いないところの別の眼をもって行わねばならない。ここでいわれるところの別の眼とは、感覚的な眼、すなわち肉眼のことではなくして、魂の眼、すなわち心眼とでもいうべきものである。これより、一者への還帰の旅は、感覚によって捉えるところの、自分の外の世界へと向かうものではなくして、感覚によって捉えられたものを捨て去らねば遂行し得ない自分の内への旅なのである。そして、そのような旅とは、すなわち自己理解の旅であると言えよう。よって、ここで自己理解を導くものとして美を見、それが如何にして行われるのかを考えてみたい。
さてそれでは、我々は如何にしてその旅を行わねばならないのだろうか。それについてプロティノスは、次のように言う。「めざめたばかりの心眼は、自分の前に輝いているものを少しも見ることはできない」。これは、裏を返せば、それを見うる眼をもたねば、目の前にあるものの美も見ることは出来ないということである。ところで、心眼が目覚めた状態とは、感覚的な美に捉えられずに、より高次の美を捉えることができるようになったということであり、美を捉える能力が発展した状態である。この発展は、感覚を捨て去るということによってもたらされた質的な発展なのであるが、次なる発展は如何にしてなされうるのであろうか。それについて一言で述べるならば、それは、心眼を慣れさせなさいということになる。すなわち、肉眼から心眼へと道具を持ち替えたならば、後はその道具の使用に関して熟練しなさいということなのである。これより問題となるのは、心眼を如何にして慣れさせるかということになる。では我々は如何にして心眼を慣れさせるべきなのだろうか。以下にプロティノスの叙述を述べたいと思う。まずはじめに、美しい営みを見ることに慣れねばならない。次に、技術の作品ではなく、すぐれた善き人による美しい作品を眺め、それによって、その美しい作品を手がけた者たちの魂に目を向けなければならない。そこにおいて、善き魂のもつ美しさを知らねばならないのであるが、それを知るために、自分自身に戻り、自分自身を見なければならない。しかるに、自分自身を見ても、自分自身の美しさを見ることが出来ないということがある。そして、そのような場合プロティノスは、彫刻家が、彫像を完成させるようにして、自らを完成させよというのである。すなわちその方法とは、自分自身の余分なところを切りとり、曲がったところをまっすぐにし、漠然と暗くかすんでいるところをきれいにして輝きをあたえるというものであるが、この作業が完成されたなら、その者はまさしく心眼そのものになるのであって、これより、大いなる美を見ることができると言われるのである。すなわち、心眼という道具のもつ最高の能力を使うには、それを用いる者が、それを用いるのにふさわしい者とならねばならないのである。
以上が、プロティノスにおける魂の上昇の過程であるが、ここで、気になる点を考えたいと思う。まず第一に、魂の上昇は、心眼を使うということを見出すまでとその後とでは質的に異なるものなのではないかということである。すなわち、心眼に至る前は、自分の見ている対象を変えていくという方法をとるのであるが、これは、見えている美をのみ対象とするのであって、たとえば、自分の見ている対象の美が見えないとして、そこに実は見るべき隠された美があるのかどうかということは問題にならないのである。そして、心眼を見出した後では、自分自身の美が問題とされるのであるが、その美を見る過程がすなわち魂の上昇のプロセスであって、それは、見るべき美があるが、その対象を見つつもその美が見えないのであるなら、それを見ることができるように努力しなさいという方法でもって遂行されるのである。すなわち、心眼以前は、目に見える美それ自体に導かれるところの魂の上昇なのであるが、心眼以後は、魂は目的としては美に導かれつつも、美を見ることそれ自体によって上昇するのではないのであって、心眼以前の上昇とは、質を異にしたものであると思われるのである。これより、あるいは、美とは欲求としての面では魂の上昇に終始働き続けるものであるが、美の現れそのものによるところの魂の上昇に関する効用は、魂の眼を内に向けさせる、もしくは心眼を目覚めさせるといったところまでにとどまるとはいえないであろうか。
上で、プロティノスにおける美の問題に触れたのであるが、ここで、アウグスティヌスにおける美について考えてみたい。アウグスティヌスは、『告白』第10巻において、神への愛についてのべ、自分は神を愛するとき何を愛するのかと問う。そして、アウグスティヌスは、心の中で様々の被造物に対して上の問いを発するのであるが、あらゆる被造物は、自らはアウグスティヌスの愛する神ではない、神とはわれわれを造りたもうた方である、と答える。それについて、アウグスティヌスは、次のように言う。「私の問い、それはそれらのものについての私の観想であり、それらのものの答え、それはそれらのものの有する美しさでした」。(第6章)これよりわかるのは、被造物のもつ美しさが、神に対する愛へと魂を向けさせるものであるということである。それからアウグスティヌスは、被造物の有する美が、何故すべての人に同じ答えを語らないのかと問う。そしてアウグスティヌスの得た答えとは、外部からうけいれた声を内部において真理とくらべあわせてみる者だけが、その声を了解しうるというものである。すなわち、アウグスティヌスは、被造物の声を観想という自分の内部に目を向ける行為によって聞いたのであり、これは観想というものが真理に向かう手段であることを意味するのである。そしてこの観想というものが、プロティノスのいうところの心眼でもって見るということと同じことを意味すると考えてもよいであろう。つまり、観想をし得ない者は、見るべき眼を持たない者ということになるのである。さらにまた、以上のことから、アウグスティヌスによると、感覚的な美を見る場合いくらその美を見たとしても、内的な眼によってその美を捉えるのでなければ、その美のもつ本当の意味を捉えることはできないとも言えるのではなかろうか。
ここで、プロティノスに戻るが、次に考えたいのは自分自身の美を見るために行うべき行為について述べられたその方法についてである。プロティノスはその作業を彫刻家の比喩でもって説明するのであったが、その比喩は何を示すために用いられたのであろうか。そこにおいてみられる説明は、明らかに材料から彫り出すことによって作られるたぐいの彫像に関するものであって、様々な材料を付け加えて作るところの彫像に関してのそれではない。これより考えられるのは、自分自身のもつ美を見るためには、自分に何かを付け加えるのではなくして、むしろよけいなものを取り去るということを行わねばならないということである。そこで想い出されるのは、アウグスティヌスの『三位一体論』における記述である。そこでは次のように述べられる。「精神は自己自身を認識するように命じられるとき、あたかも自己から取り去られたもののように、自己を問い求めてはならない。むしろ自己に附加したものを取り去らなくてはならない。精神は明らかに外側に存在している感覚的なものより内的であるのみならず、魂の或る部分において存在するあの感覚的なものの似像よりも内的である」。(10.8.11) すなわち、感覚的なものは、より内的であるところの精神的なものを隠してしまう余計なものであり、自分自身つまり精神的なものを見るためには、取り去られねばならないのである。プロティノスが述べるところの自分自身の美もまた、感覚的なものあるいはその似像によって隠された状態にあるのであり、それを除かねば美のもつ本来の輝きが見えなくなっているのだと言えるであろう。アウグスティヌスにとってもプロティノスにとっても、自己認識がしづらいのは、自己に余分なものが附加された結果によるのである。
さて最後に、美の導きが持つ性質について考えたい。以前述べたように、あるいは美の現れは心眼を目覚めさせるまでの効用しかないのではという問題があった。しかるに今まで述べてきたことをふまえるならば、それに若干の修正を加えねばならないことがわかる。すなわち、ただ感覚的に美を捉える場合、それが心眼を目覚めさせるということは正にその通りであるとして、果たしてその後に効用がないと言い切れるのであろうかということである。アウグスティヌスによる上の部分より、感覚的に捉えられた美によって愛が引き起こされたとしても、美を心眼にて捉えられねばその本当の意味を捉えることはできないということになるであろう。本当の意味とは、自分が美を愛するということが、実は神への憧れもしくは一者への憧れによるものだということである。ところで、自己理解の過程とは神あるいは一者への上昇を意味するものである。美は絶えず人間に呼びかけることによって、憧れという欲求を引き起こし自己理解を促す。そのように言ってよいのではなかろうか。(1996/01/22)