フィチーノにおける魔術の再定義
はじめに
本論は、ルネサンスの思想家マルシリオ・フィチーノ(1433-1499)の魔術について、彼の『三重の生について』[1] (以下『生について』と表記)第3巻の内容を検討することにより、彼の魔術に対する従来の見方を再検討することを目的としている。
フィチーノは、メディチ家の庇護のもとプラトン・アカデミーを主宰し、プラトンやプロティノスの著作のラテン語訳を行いあるいは同著作に対して注解を施すなど、ルネサンス思想にプラトニズムを導き入れた人物として知られている。加えて彼は、魔術的側面の強い『ヘルメス選集』をも翻訳し、後代に多大な影響を与えた。これらの作品を背景に成立したフィチーノの魔術論は、彼の晩年の著作『生について』第3巻にて展開されている。
『生について』が公刊されたのはフィチーノが聖職について後のことである。魔術という主題は、キリスト教徒フィチーノにとってリスクの高い主題であった。実際に、フィチーノの魔術論に異端の疑いがかけられたのである。では何故彼は、教会との摩擦という容易に想像される危険を賭してまで魔術を論じたのであろうか。そこには、単なる異教趣味にとどまらない、キリスト教徒フィチーノにとっての大きな意味があるはずである。
本論は次の手順で述べられる。『生について』の紹介を行いフィチーノ魔術の述べられるコンテクストを確認する(第1部)。フィチーノ魔術の特徴(第2部)を三節に分けて考察する。フィチーノ魔術とキリスト教の関係について述べ、彼が魔術を扱う目的について考察(第3部)する。フィチーノ魔術の再定義のための要点を押さえ、フィチーノ魔術の再定義(第4部)を行う。
1.『三重の生について』
1489年に公刊された『生について』は、フィチーノの「最も風変わりで、最も入り組んだ」[2]著作ともいわれる、学者の健康のために書かれた医学書である。当時の医学書は、広く一般に受け入れられていた四大元素の性質や占星術的な知識を立論の前提として活用している。フィチーノのこの書も同様である。『生について』は3巻構成の書物である。第1巻は学者の健康維持について(表題はDe Vita Sano)、第2巻は学者の長寿について(同De Vita Longa)扱っていて、主として医術がテーマになっている。しかし第3巻では護符や音楽に大きな役割が与えられていて、ウォーカーの言うように「医学的な勧告をしているが、同様に何か他のことも示唆している」[3]内容となっている。「何か他のこと」とは正に魔術に他ならない。第3巻の表題は「天によって整えられるべき生について」(De Vita Coelitus Comparanda)であり、同じ主題を扱ったプロティノスの著作に対する注釈であると書かれている[4]。ただしプロティノスのどの書を指しているのかははっきりしていない[5]。
プロティノス以外で指摘されるフィチーノ魔術の典拠としては、ピエトロ・ダーバノ、ロジャー・ベーコン、アルキンドゥス、アヴィセンナ等の中世の著作家による魔術論考および『ピカトリクス(Picatrix)』[6]、さらにプロクロスの『供犠と魔術について(De Sacrificiis et Magia)』、イアンブリコスの『秘儀論(De Mysteriis)』および『ピュタゴラス伝(Vita Pytagorae)』、ポルピュリオスの『潔斎論(De Abstinentia)』といった新プラトン主義の著作、そしてなにより『ヘルメス文書(Hermetica)』の『アスクレピオス(Asclepius)』が挙げられる[7]。
ではこれから、フィチーノ魔術の特徴をみてみよう。
2.フィチーノ魔術の特徴
2-1 フィチーノ魔術の原理
フィチーノ魔術の特徴について述べるに当たり、まず見ておかねばならないのが気息(spiritus)についてである。『生について』全3巻を通し、フィチーノは気息について注目する。第1巻では気息について
心臓の熱自体によってより精妙な血液から産出され、脳まで駆け上がり、そこで魂が外的感覚同様内的感覚を働かせるために絶えず用いられる。そのために、血液は気息に、気息は感覚に、さらに感覚は理性に仕えるのである[8]。
と述べられている。これは当時の一般的な医学の範疇内での説明であり、気息を肉体と魂を結ぶ絆としているのである。さらに伝統的な四体液説に則り学者のメランコリーについて触れられ、学者はメランコリーを支配する土星の影響を和らげるべく太陽・木星・金星・水星の力を引き寄せるべしとされる。続く第2巻では気息が自然気息・生命気息・動物気息に分類され、気息を育み純化するための三種の事物(①葡萄酒と芳香性の食物 ②香気と純粋で明澄な空気 ③音楽)について医学的見地から述べられている。第3巻の初めがフィチーノ魔術の原理を述べた部分である。そこでは気息が重要な役割を担っているが、いささか第1、2巻の医学的説明からはみ出す内容となっている。
フィチーノは以下のように述べる。知性(intellectus)は不動のものであり動きの原理である情動(affectus)をもたず、片や身体(corpus)は自ら動く原理を持たない。この二つを結びつけるのが、自発的に動く魂(anima)である。そして、神的精神(mens divina)と物質(materia)とをつなぐものが世界霊魂(anima mundi)である。世界霊魂は、「神的力により神の精神の中にあるイデアほど多くの事物の種子的理性(rationes rerum seminales)を持っていて、これによって物質に様々な種を生み出す」[9]。したがって物質の纏う形態(forma)としてのイデアは衰えるが、それは仲介するものによって再生される。世界霊魂の理性と下位の形態は調和的に適合するが、それをゾロアスターは神的な誘惑物(illix)と呼んだし、シュネシオスは魔術的おとり(illecebra)と呼んだ。こうした結びつきは世界霊魂に依存しているが、世界霊魂はいたるところに現前している。「生ける世界において、魂が存在せず、魂の働きが内在しないような形のないものは見いだせない」[10]からである。それゆえ、「古代のプラトン主義者たち」は天上にはさまざまな図像(figura)があると考えた。星座や黄道十二宮等がそうした図像である。整序された天上の諸形態に、より劣った地上の事物たちの形態は依存しているのだ。
すなわちフィチーノは、それが依存する世界霊魂に基づく上位の図像に働きかけることによって、感覚世界に影響を与えうると考えたのである。では如何に働きかけるのか。その方法は、気息を吸収することである。
しかしながら、われわれの魂の力が気息を通じて肢体に用いられるということを常に心にとどめておこう。同様に世界霊魂の力は、世界身体内の気息と同様、いたるところで活発である第五元素を通じて世界霊魂によっていたるところに広がる。ところでこの力は、そのような気息を最も多く吸収しているものに流れ込んでいる[11]。
ストア派に由来する気息であるが、フィチーノにおいては人間の魂における気息と世界霊魂における気息が区別されている。この世界霊魂における気息の中に星辰(stella)や神霊(daemon)が存在するのである。これから見ていくように、フィチーノの魔術では天体による分類が要となるが、それについては次の部分が係わってくる。
世界は全体として生きかつ呼吸していて、我々はその気息を自由に吸収する。しかしこの気息は、各々の人間により、彼ら自身の本性にしたがって、彼らの気息に類似したものが吸収される。とりわけ技芸を用いればより類似した気息が引き寄せられるであろうが、それはすなわち、出来る限り天に上昇するということである[12]。
世界霊魂の気息を吸収するときは人間の気息にふさわしい形で吸収されねばならない。そして、そのふさわしい形は個々人により異なる。いかなる種類の気息を引き寄せるか、それが問題なのである。その方法として技芸(ars)が推奨されるが、この作業は魔術の実践を意味する。そして引用部分最後の「出来る限り天に上昇する」というフィチーノのアドバイスは、彼自身の魔術の目的とも関連する重要なフレーズであると私は考える。これについては、第4部でふれてみたい。
2-2 天体による分類
フィチーノは引き寄せるべき天体の影響として、木星、金星、水星、そしてとりわけ太陽を挙げる。フィチーノの占星術に対する態度はいささか曖昧である。フィチーノは、天体が人間の運命に介入するとする考えを時に肯定し時に否定するのである[13]。ウォーカーの言うように、彼は、天体の影響は存在すると信じつつ、カトリック教徒として魂や知性を含む占星術的決定論を公然と認めるわけにはいかなかったのである[14]。したがって『生について』において天体を用いた表現は多々あるが、占星術に対する積極的な記述はなされない。フィチーノの占星術的記述の中心は、各天体を用いた諸事象の分類である。フィチーノは、太陽および木星に配属される事物の例として次のものを挙げる。
<太陽>宝石、ヘリオトロープと呼ばれる花、金、金色の染料、貴橄欖石、ルビー、没薬、乳香、苔、琥珀、黄色の蜂蜜、サフラン、シナモン、雄鶏、白鳥、ライオン、コガネムシ、ワニ、金髪や縮れ髪の人および禿頭の人
<木星>銀、ヒヤシンス、トパーズ、サンゴ、水晶、エメラルド、灰、サファイア、緑および褐色、ワイン、砂糖、白い蜂蜜、不変・公正・宗教的・立法に係わるもの、多血質で美しい尊ぶべき人間、仔羊、孔雀、ワシ、若い牡牛[15]
以上の分類の原理といえそうなものは複雑に絡まっていてはっきりと述べることは難しい。どうしてルビーが太陽に、ヒヤシンスが木星に配属されるのだろうか。ところで、ヘリオトロープという名は太陽神ヘリオスに関係するゆえに太陽にふさわしいことは容易に察せられるし、金色も太陽の輝きを連想させるのでやはり太陽にふさわしい。これに関してミシェル・フーコーは、そうした分類は類似に基づいていると述べる[16]。彼の説明にフィチーノ魔術を当てはめると、各天体による分類は類似に基づいてなされており、天体それ自体は類似が存在するための外徴の働きをしているということになる。フィチーノは天体それ自体が諸事象に影響を与えると信じていた。そして魔術がどのような効果を上げるかは、この分類によって方向づけられるのである。
2-3 フィチーノ魔術の方法
フィチーノ魔術の方法は様々であるが、いずれも天体の好ましい影響を引き寄せ悪い影響を避ける方法であって、天体による分類に大きく依存している。占星術的に処方された薬を用いる方法が述べられているし、どのような服を身に着けどのようなところに住むか等様々な内容がある。特に魔術として際立つのが護符ないし像(imago)および音楽を用いる方法である。
フィチーノは、護符ないし像の使用について多くの紙面を割いている。例えば15章では、フィチーノ自身が行った実験について述べている。
若い頃、天の力を得るために磁石に熊の形を彫り、月がより良い位置にあるその時に鉄の糸で首にかけようと考えた。なるほど、ついに望みどおりにその星座の力の影響は得られた。しかし、長らく試してみると、結局その星座の影響は非常に土星的かつ火星的であることがわかった[17]。
占星術的に適切な物質で作られたメダルや指輪等に天体や星座の象徴を刻みつけて天体の影響を引き寄せる内容については、プトレマイオスや『アスクレピオス』、ゾロアスター教の魔術師やポルピュリオス、イアンブリコス、シュネシオス、プロクロスなどが引き合いに出され、その効力に権威づけがなされている[18]。引用したフィチーノによる魔術的実験は、土星や火星という彼にとって望まざる影響を引き寄せたため失敗に終わったものではあるが、フィチーノ自身の体験に基づく、護符の効果を認める貴重な証言である。フィチーノは、「天の広大なる広さ、力、動きは、全ての星の全ての光が、あたかも空を貫くように、瞬時に、容易に、絶えず、地の塊に真っ直ぐに浸透するよう働く」[19]のであり、そうした光は「秘められた驚異的な力を我々が知っている以上に像に刻印する」[20]と述べ、天体と黄道十二宮の像について記している[21]。像の持つ力については「色(color)、形(figura)、数(numerus)」が「我々の物質を天的なものに向け準備させる」[22]と述べている。何をもって天体の力を得られたと確証できたのかは説明されておらず不明であるが、フィチーノが像の持つ力を信じていたのは間違いない。
そうした像の力を利用する方法として、『生について』全般の主題に沿った太陽・金星・木星の三美神の護符作製について述べられる(18章)。その後宇宙模型(mundi figura)について論じているが[23]、これは一種の芸術作品である。この天球の運動を再現するような形に組み立てられた模型についてイェイツは次のように述べる。
さまざまな形態の「宇宙模型」は、このように芸術的なオブジェなのであって、それはまた護符的な効力をも有するがゆえに魔術的に用いることができる。それらは天界の像に好ましい配置を与え、好ましい影響のみを引き降ろし、不利なものは除外し、そのことで「地上の世界」に影響を及ぼそうと試みるのである。要するに、非常に曖昧にしか示されてないこの芸術作品は機能的なものである。つまり魔術的使用を目的とし製作されたものである。世界の模像と天界の像を知識と技能でもって配置することにより、「魔術師」は星々の影響を統御するのである[24]。
フィチーノは、こうした模型はただ単に鑑賞するため(spectare)のものではなく魂によって熟考するため(animo reputare)のものだと述べ、そうした模型を寝室に作成し、そこで長い時間を過ごすよう勧める[25]。そうすれば、外出時にも労せずして世界の形や色を想起することが出来るからである。宇宙模型製作の目的は、感覚的なものを通して行う観想活動である。そして、像を魂に定着させれば目の前に対象物がなくとも魔術的効果を発揮できるというのである。だとするとイェイツの述べる魔術師の「技能」として特に強調されるべきは想像力を用いる技能である。フィチーノ魔術の視覚に係わる方法の極みがこの宇宙模型と言えるのではなかろうか。
次にフィチーノの音楽を用いる魔術についてみてみよう。音楽を用いた魔術に関する記述も複数の章にみられるが、特に21章が音楽を用いた魔術を主題としている。フィチーノは歌について次のように述べる。
歌は万物の最も有効な模倣者であるということを覚えておくように。なぜなら、歌は魂の意図と情動、それに言葉を模倣し、人間の肉体の所作、活動、性向をも再現するし、また万物を力強く模倣し表現するため、歌い手も聴き手も、それを真似あるいはそれに向けて活動しようと駆り立てられるのである[26]。
時間的芸術である歌は、時間的事物の適切な模倣者である。「とりわけ、この種の音楽的気息は、肉体と魂の媒体たる気息に触れ作用を及ぼす。そして両者は、その作用により直接に作用しあう」[27]のである。フィチーノは歌の位置づけについて、占星術的に月から土星(低次のものから高次のもの)までの配属を示している[28]。音楽あるいは歌は、感覚で捉えられる事物と知的に把握される事物との中間に位置付けられている。音楽自体が太陽に配属されていて、天体の中でもとりわけ太陽を重視するフィチーノにとって音楽ほどふさわしい魔術の手段はないのではなかろうか。フィチーノはさらに音楽自体を分類し占星術的に配属する[29]。本質的に太陽に配属される音楽であるが、全ての音楽から太陽の影響を引き寄せられるとは限らない。それぞれの天体に適する音楽を判断することの難しさについては、フィチーノ自身「一つは我々の注意深さにより、もう一つは一種の神託により」[30]知るしかないと、いささか曖昧な説明しかしていない。しかしながら、以上の分類は、個別の音楽がそれぞれいかなる天体を真似ているのかを判断するための分類である。それによって目的に応じて用いる音楽の種類を選択するのである。ところで、歌詞と切り離された音楽は、気息に影響を及ぼしこそすれ知性を動かすわけではない。知的内容を伝達し知性を動かすのは歌詞である。したがって、歌はフィチーノ魔術にとって強力な手段となる。はっきり記されているわけではないが、フィチーノ自身古式のヴィオラを手にしてオルフェウス讃歌を歌っていたのは間違いないようである[31]。
「魂の糧は真理である。とりわけ目は真理をみつけることに、耳は真理を聞くことに専念すべきである」[32]とフィチーノは述べる。視覚と聴覚は他の感覚よりも上位の感覚とされるが、それはその認識にかかわる能力のいかんによる。したがって、魔術の実践においても像を用いる魔術や音楽を用いる魔術に重点が置かれるのは当然のことであろう。イェイツはフィチーノ魔術を「優美」と形容する[33]が、私もフィチーノ魔術の特徴としてその美的要素を強調したい。フィチーノ魔術の方法は芸術的であるし、なによりその背後に美的要素が見え隠れするのである。フィチーノの美の言説[34]には、プラトンやプロティノスに加え、アルベルティによる「斉美(concinnitas)」の分析にみられる均衡の理論と中世以来の光の形而上学が背景としてある。『生について』第3巻の主題が「生を整える」ことであるということを思い起こせば、フィチーノ魔術はある種の美的な営みであるといっても過言ではないであろう。
以上を踏まえ、フィチーノの述べる魔術の特徴として①気息の措定②天体による分類③美的要素の三点を挙げることが出来よう。加えてフィチーノ魔術の目的についても触れねばならないが、そのためにはフィチーノにおける魔術とキリスト教との関係を述べねばならない。
3.フィチーノにおける魔術とキリスト教
フィチーノの活躍した時代は魔術について述べるには大変気を使わざるをえない時代であった。キリスト教による異端視の問題である。神霊により人間の知性に影響を与えるような魔術、つまり神霊魔術は異端とされてしまう。したがってフィチーノは、自身の魔術が神霊魔術とみなされないよう細心の注意を払わねばならなかった。事実フィチーノの魔術は、自然的力を天使や神霊等の人格的・超自然的存在の力を借りずに引き寄せることを主題としているのである。
しかしながらフィチーノ魔術には危うい側面があった。それは護符および歌を用いる魔術に関する部分である。『生について』第3巻結尾に、プロティノスの見解はヘルメス・トリスメギストスが『アスクレピオス』で述べたことを繰り返したとの記述[35]がある。つまり『生について』第3巻は、プロティノス解釈の形をとりつつ『アスクレピオス』の魔術について注解しようとしたものだというのである。『アスクレピオス』は『ヘルメス文書』に分類される書物であり、フィチーノが『ヘルメス選集(Corpus Hermeticum)』を翻訳する以前よりアラビア経由で中世ラテン世界にもたらされていた。この書についてはトマス・アクィナスも言及している。そこに示されている魔術は神像に力を注ぎ込み生命を付与する類のものであり[36]、トマスはこれを悪魔的なものであると非難していた[37]。しかしフィチーノは、トマスの非難を踏まえつつ次のように述べる。
しかし目下メルクリウスに、あるいはむしろプロティノスに戻ろう。メルクリウスは言う。聖職者たちは、世界の自然的事物から適切な力を選び出し、それらを混ぜ合わせたのであると。プロティノスもこれに従い、結合をもたらす世界霊魂の中では、すべてのものが容易に集まりうると考えている。なぜなら世界霊魂は、神の力により自身に含まれるある種の種子的理性によって、自然の事物の形態を生み出し動かすのであるから。彼はこの理性を神々と呼ぶ。というのは、それらは至高の精神のイデアから決して切り離されないのであるから[38]。
『アスクレピオス』の魔術はアウグスティヌスによって厳しく断罪された魔術でもあり[39]、したがってフィチーノの魔術にも危険な要素が含まれていることが推察できる。事実フィチーノは、『生について』発表後キリスト教当局から異端の容疑をかけられ同書に対する弁明を書かねばならなかった。確かに『生について』第3巻には、護符、つまり知的存在に向けて使用すると解釈されうる道具について書かれた部分があるし、歌についても歌詞が何らかの知的存在に係わるのではなかろうと疑われても仕方がない。それゆえフィチーノが「護符はその力を主としてその物質的素材から汲んでいるのであって、それに刻まれた図像からではない」[40]と述べ護符の使用を正当化したり、「呪文(cantio)は避けた方が無難だ」[41]と述べ歌(cantus)と呪文を区別したりするのは当然である。フィチーノ自身、自らの魔術論の危うさを自覚していたのである。ところで上述のように、フィチーノ魔術は、世界の知性からイデアの影響力が降下し、世界霊魂の裡なる種子的理性を通過し、世界の身体の物質的形態に至るといった一連の流れに沿うものである。フィチーノ自身は、魔術で護符等を用いたとして、それは世界から力を得ているのであって神霊からではないと考えていた。「天によって整えられるべき生について」の副題からして、フィチーノが新プラトン主義的世界観によって自身の魔術が異端とされないための基盤をつくったのは明らかである。
実際のところ、同書で述べられる魔術は想像力に働きかけることを主眼とした魔術で、中世の魔術に比べると穏やかかつ洗練された印象を与える。その穏やかさはフィチーノの慎重な性格に負う部分が多いであろうが、この慎重さが功を奏し『生について』は異端の咎を受けずに済んだ。しかしながら、同書の影響を受けた様々な著作がフィチーノにおいては潜在していた異端的要素を顕在化させている。フィチーノは、同書においてかなり危険な冒険を行っていたのである。
ではフィチーノは、そうした危険を冒してまで、なぜ『生について』を著したのであろうか。『生について』が公刊されたのは1489年、つまりフィチーノが聖職について(1473年)後の作品である。クリステラーが強調するように、フィチーノの思索における核となる要素は「内的経験」である[42]。クリステラーは内的経験について「独立して経験され、あるいは外的出来事に対立しさえし、自身において固有の確実性を生みつつ、また私たちのあらゆる経験の形式および解釈に影響を与え続けるものである」[43]と述べ、フィチーノにおける内的経験の重要性を指摘する。実際フィチーノは『プラトン神学』で次のように述べる。
われわれは、われわれの悲しみの原因を知らず、あるいははっきりと考えないにもかかわらず、しばしば暇な時に、いわば亡命者のように悲嘆に落ち込むということは驚くべきことである。これゆえに、人間は一人では生きられないことになるのだ。なぜなら、われわれは、他人との密接な関係や多様な楽しみによって、隠され永続する悲しみを追い払うことが出来ると思うのであるから。しかし悲しいかな、われわれはあまりに誤っている。というのも、われわれは、時に楽しい見世物の間にため息をつくし、見世物が終わると悲しみに落ちさえするのである[44]。
フィチーノの思索の根底には、根本的な不安がある。そしてフィチーノはその不安に対処するために観想生活を勧める。フィチーノにとって観想生活は真理と存在のますます高い段階へと魂をしだいに高めることであった。クリステラーは次のように述べる。
外的世界に貢献する感覚的生は、時間が支配する対象である。人が常に新しい目的へと向かい未来のために現在を放棄する限りは、決して安らぎが訪れることはなく、絶え間ない時間の喪失が彼を世俗的かつ内的に空虚な存在とさせる。一方、観想的生は永遠の一部である。というのは、永遠とは過去も未来もない純粋なる現在に他ならず、時間は、純粋に活動的な現在、永遠への上昇の完遂として現実の充足感のうちに克服される。こうした意味でフィチーノは人々に、明日から今日へ、時間の流れから純粋な現在へ上昇せよと勧めるのである[45]。
ここで述べられている「現実の充足感」はまた、フィチーノ魔術の目指すものではなかろうか。なぜならフィチーノは、『生について』への弁明後半部分で次のように述べるからである。
未来への詮索は、あなたをすぐさま過去の自分自身へと運ぶ。それゆえ、楽しんで生きようと繰り返しお願いするのである。なぜなら、あなたが平穏に生きることを運命が許すのであるから。しかし、本当にあなたが心配(cura)のない生を送るために、決してこの一つの心配、かつてそれによってあなたが悩み、とりわけ倹約(diligentia)によって心配を逃れようとしたものに拘ってはならない[46]。
『生について』の主題からも察せられるように、これは恐らく健康に関する心配をさす。フィチーノは倹約によって感覚的な事物を避ける道を勧めない。感覚的事物を通じて行われるフィチーノ魔術は、気息に働きかけ内的経験を変容させる。この変容をクリステラーの述べる充足感に方向づけるならば、フィチーノ魔術をいわば観想的生の一部として位置づけることができるのではないか。フィチーノは好ましい影響を持つ天体とそうでない天体を区別するが、何を持って好ましいとするかは観想的生に役立つか否か、あるいはキリスト教徒フィチーノが信仰を全うするために役立つか否かによって判断されていると考えられる。『生について』の弁明後半部分には「生には、不安のない、魂が平穏な状態が必要である」[47]という表題がついている。すなわちフィチーノは、自身の魔術をキリスト教に反するものとは考えておらず、むしろその信仰に益するところがあると考えていたのである。『生について』は、フィチーノにおける医者としての側面と聖職者としての側面いずれも反映している書物である。そして、フィチーノにおいてその両側面を最も適切に表現できる手段が、魔術という主題だったのではなかろうか。
4.フィチーノ魔術の再定義
以上、フィチーノの魔術論の全体像を見てきた。彼の魔術は、フィチーノ本人の言も踏まえ「自然魔術(magia naturalis)」と称される。しかしながら、自然魔術という用語が示す範囲はかなり広く、フィチーノ魔術の独自性を的確に表す用語とは言い難い。ウォーカーはフィチーノの魔術を「気息魔術(spiritual magic)」と呼ぶ[48]。フィチーノ魔術が行っているのは、人間の魂ではなくして、肉体と魂とを媒介する気息に天体の影響を及ぼすという作業である。様々な方法はあれども、その作業内容は一貫している。したがってウォーカーによる用語は的確なものである。ただしそれは、いわばフィチーノ魔術のメカニズムに関する記述であり、フィチーノ魔術の本質として盛り込まねばならない内容が欠けていると思われる。あるいはシューメイカーが「天界魔術(magia celestis)」の典型としてフィチーノの魔術を挙げている[49]。確かにフィチーノの魔術は占星術的用語に満ちた魔術であるのは明らかである。しかしながらその表現の本質は、物質的なものから知性的なものにいたるまでのイメージによる分類であり[50]、必ずしも分類の体系が天体に因らねばならないわけではない。
フィチーノ自身明言はしていないが、天体のイメージ自体は、かなりの部分中世の魔術書『ピカトリクス』に負っている。ただしフィチーノの魔術はピカトリクスの魔術と一線を画されるものである。イェイツは次のように述べる。
それ[フィチーノの魔術]を『ピカトリクス』で推奨されている、汚らしく忌まわしい物質、悪臭を放ち、むかむかさせる混ぜ物と比べてみるとよい。流行の医師が勧める新しく上品な魔術と、古く汚らしい魔術とは非常に対照的な印象を与える。再度、原始的な護符の図像は、ルネサンス芸術家により、不朽の美の形象へと拡張され高められるのがわかるのである[51]。
フィチーノ魔術は、護符の視覚的要素や音楽、世界天球のような芸術的方法をとっている。中世との内容的な連続性はあるが、彼の魔術が与える印象は中世の魔術とは大きく隔たっている。それは「不朽の美の形象」と言われているように美的な要因によるところが大きい。
ところでフィチーノは、『プラトン『饗宴』注解─愛について』において次のように述べる。
なぜエロスは「魔術師」なのか。魔術の力のすべてはエロスにおいて生じるからである。魔術の仕事とは、いわば一種の本性の類似により別々なものを一つに引き寄せることである……相互の類似が相互の愛を、愛が相互の引力を生む。しかしてこれが真の魔術である[52]。
類似による結びつき―フィチーノ魔術の基盤はこれに存する。厳密には、フィチーノの方法は、似たものを引き寄せるというより、好ましい影響を引き寄せることによってそれに似たものとなるという内容であるが、そこにエロスの働きが係わっていることは間違いない。クリアーノは「フィチーノこそ、心象(phantasms)の操作を行う二つの技術、ならびにそれらの操作過程の本質的な同一性を最初に指摘した人物である」と述べ、フィチーノを「エロス=魔術という公式の父」としている[53]。フィチーノ魔術はいわばエロス的魔術なのであり、したがって、エロスの対象たる美的な要素が際立つのは自然なことである。
2-1で引用した「出来る限り天に上昇する」というフレーズは、フィチーノ魔術の美的要素と相俟ってプラトン『饗宴』におけるディオティーマの秘儀を想起させる[54]。イェイツは『ピカトリクス』の魔術を「その目的は厳密に実用的なものである」とし、「病気を治すため、長生きのため、色々な企てに成功するため、牢獄から逃げ出すため、敵を打ち負かすため、他人の愛情を得るため」等の例を挙げている[55]。フィチーノ魔術も、メカニズムとしてはそうした現世利益を求める方向に展開できたものであるが、フィチーノはそうしなかった。フィチーノ魔術の中世における魔術との大きな違いは、プラトンないし新プラトン主義における美の教説およびキリスト教思想が背景としてある点に求められよう。「出来る限り天に上昇する」、つまり、イデアあるいは神に向かって魂の序列を高めていくことこそがフィチーノ魔術の目的といえるのではなかろうか。したがって私は、フィチーノ魔術の特徴として自己上昇的魔術である点を付け加えたい。この特徴は、中世の魔術と対比したうえでのルネサンス魔術を特徴づける要素といえるかもしれないが、それについてはフィチーノ魔術の影響を受けた様々な魔術についても検討してみなければならない。それは今後の課題としたいと思う。