アルベルトゥス・マグヌスの知性論
アルベルトゥスの知性論は、「それ自体離存している神的なるものがいかにして知的に認識されるか」という問いから始まる。以上の問いは、アリストテレスが、後に考察すると言いつつその箇所が見いだされないところの問いである。そして、アラブ哲学はその問いについておろそかにしている、というのが、アルベルトゥスの意識であった。ところで、以上の問いはすなわち知性の本性的な遂行の最高段階を扱うものと言える。それでは、知性はその最高段階にいかにして至ることができるのであろうか。それをこれからみていきたい。
さて、我々が日常行っていることであるが、感覚的データはいかにして知になるのであろうか。それを、アルベルトゥスは、アリストテレスにならい能動知性の働きによるものとする。しかしながら、その能動知性と可能知性の関係についての解釈は、知性の単一性を唱えたアヴェロエスとも、それぞれを実在的に区別したトマスとも違う独自のものであった。すなわちアルベルトゥスの解釈は次のものである。「そのもの(魂)が第一原因の光の分有を通して第一原因へと振り返る、第一の知性的本性から生じたものである限りで、それ(魂)から発したものは、それ自らにおいていわば光であり、能動知性なのである。しかし、それが実体であり、その実体を通して身体の本性が確立され、固定され、完結したものである限りで、魂から発したものは可能知性である」。つまり、知性とは、本性的に分有しているところの第一原因への考察を行う限りでは能動知性であり、それ自身として考えるならば可能知性であるというのであって、すなわち、能動知性と可能知性とを、同じ知性における二つの働き方として考えるということである。では、能動知性と可能知性とは実際どのように働くのか、というのが以下の話である。
アルベルトゥスは、次のように述べる。「あらゆる知性的本性を持ったものは、第一原因に由来する必然性と、それ自らに由来する可能性を持つことによって、自らを振り返ることができ、このような振り返りにおいて、第一原因から発する光は、それ自体の内に具わる可能性に浸透する。こうして魂は、自らを振り返ることによって、能動知性による形相づけである第三の知性を受け取るが、この形相づけは、あたかも目が物質的光によって形相づけられて見るようになるごとく、この光から可能知性を形相づける」。何かを理解できるためには、感覚的認識以前にある基本的な原理がなければならない。そして、そのような諸原理を可能知性は先天的に持つのである。諸原理の知解は、能動知性の光に基づいて行われるのであるが、これは、上で述べられている可能知性の自らを振り返ることによる形相づけ、すなわち、両知性の最初の結びつき、によって生じるのである。そしてまた、このような諸原理の認識こそが、後天的かつ感覚的表象に媒介された仕方での認識を可能にするのであるが、その際、能動知性は作用因として可能知性と結びつく。すなわち、知性は第一の諸原理によって現実的な認識を獲得する。それゆえ、アルベルトゥスは、知性を「観察の知性」と見なすのである。
知性は、後天的な認識によって徐々に豊かさを増す。それに応じて、可能知性はますます現実態化してくるのであるが、これはすなわち、より能動知性に対応できるようになると言うことである。「このもの(能動知性)はそのあらゆるものに対して可知性と(質料からの)解放性を注ぎ込むのであり、そのあらゆるものは、分離され解放されたものとなる限りにおいて能動知性に類似する。それゆえ、そのあらゆるものにおいて、可能知性は継続的に能動知性の光を受け取り、日々それ(能動知性)とますます類似したものとなる。哲学者たちによれば、このことは、能動知性との連続性と結合へと動かされることと呼ばれるのである」。以上のようにして、認識は、感覚に対する依存から徐々に解放され、内的・形相的に豊かになっていくのであるが、それを通じて、能動知性は、作用因としてのみならず形相因としても可能知性に関わるようになる。そこから、知性は対象的に与えられる認識内容への依存性を超えて、自らにおいて自らを通して、自らの活動において認識するようになるのである。そしてアルベルトゥスは、そのような知性が至福に満ちた完成に至ることは可能であると見なすのである。
さて、知性の根源的特徴はその再帰性に認められる。そして、認識とは、対象を自らの活動へと還元するところの根本的な自己遂行である。アルベルトゥスは次のように言う。「知性は、自らが認識するあらゆるものにおいて自らの活動を見出し、それゆえ、知性は思惟されたものを自らの活動へと還元する限り、知性はあらゆる思惟されたものにおいて自らを知解し自らを獲得し、また自らの力と美しさがどれほどのものであるのか(を認識し)、そうすることによって、自らが何であるのか、またどれほど大きいものであり、どれほど壮麗たるものであるかを認識するのである」。知性の上のような段階は、「獲得の知性」と呼ばれるが、観察の知性が獲得の知性となるには段階を踏まねばならないのである。そしてまた、獲得の知性の段階とは、あらゆる可知的なものを受け取った段階であり、すなわち、能動知性の光を自らに内属する形相として有している状態なのである。したがって、可能知性を内的に充実させるものは、多様な認識ではなくして能動知性の光であるということになる。後天的認識は、能動知性と可能知性との結合をなし、可能知性に元々具わっているところの超越的認識を行えるようにするための道具なのである。そして、以上のような完成された獲得の知性は、知性それ自らを通して能動的な認識を行うのであるが、それはすなわち、人間が自ら人間である限りそれ自らに属するような働きを行えるように、つまり、自己実現のために行われるのである。
以上が、人間における自己認識の完成の段階である。そしてさらに、この完成された自己認識が、自らを超えるところの知的存在に対する認識の道を開くのである。すなわちアルベルトゥスは次のように言う。「これは獲得の知性と呼ばれるのであり、またそれは、自らの美しさをして、まずかの美しさの源である諸知性体へと向き直らせ、あらゆる知性体を通じて、その必然性の存在がそこに依存する第一原因へと至らせ、このようにして不死性と永遠なる至福の根源に結びつくものになるであろう」。以上のように、知性は自己認識を通して知性体の認識へと向かい、さらにそこから神へと目を向ける。そこから、知性は神との同化に向かって自らを乗り越えていくようになるのであり、至福が実現されるのである。すなわち「(神に)類同化する知性は、そこにおいて人間が、可能または正当である限り、光にして万物の原因である神的知性へとふさわしい仕方で上昇していく知性である。このことが起こるのは、万物によって、現実的に完成された知性が、全きかたちで自らと能動知性の光を獲得し、その結果、あらゆるものの光と自己認識から、自らを知性体の光へと拡張し、次第に端的な神的知性へと上昇していく。それゆえ知性は、自らの能動知性の光から、知性体の光へと赴き、その知性体の光から神の知解へと広がっていくのである」。そこで知性は、神の光と混合され、神性のある部分を分有するのである。
以上で、アルベルトゥスの知性論を概観したことになる。彼は、神の知的認識の可能性を問うたのであるが、その認識は、以下にまとめるような仕方で可能であるという結論になった。すなわち、感覚的認識から自己完結的認識へ、さらにそれを通じて行えるようになる超越的認識へと至り、神認識が成立するのである。そして、その知性論の要は、能動知性の可能知性への内属という事柄である。能動知性が可能知性に対して形相因として内属するようになった知性、すなわち獲得の知性という見方はまた、後天的認識のみならず事前的認識の可能性をも示唆するものであるのである。つまり、構成的であるところの根源的な神的光が内属しているということはまた、人間の認識における構成の可能性があるということになるからである。そしてアルベルトゥスは、それこそが預言の本質であるというのである。そのような考え方は、知性の有限な部分にのみ目を向けていたのでは成り立たないものである。しかしながら、哲学の営みは、ともすればこの有限的なもののみに目を向けると言うことに傾きがちなのではなかろうか。なにはともあれ、アルベルトゥスの知性論は、大きな可能性を秘めたものであるといえよう。(1996/07/24)
参考文献 K.リーゼンフーバー『中世哲学の源流』創文社