トマス・アクィナスの『ディオニシウス神名論注解』を中心にした美に関する考察


ディオニシウスは、『神名論』において、その新プラトン主義的な発出形態をのべる。その中でⅣ章から具体的に神の名の考察にはいるのであるが、ここで善と同じ根元的言語として光・美・愛が扱われるのである。 そのうち本論においては美を扱うことにしたいのであるが、ディオニシウスによる美の扱い方の性質上、ここでは美を神と被造物との関わりという観点から考えたいと思う。美は如何にして神と被造物とをつなげるのであるか、美の性質について明らかにしつつ以下見ていきたいと思う。

ディオニシウスは次のように言う。「美はすべてのものに、閃く光のようにその根元的光線を分け与えて、すべてを美しくする。美はすべてのものを自分の方に呼ぶ(καλειν)ので、καλλοsといわれるのである」。 すなわち、美とは本来的に呼ぶものなのである。そしてまた、美が、呼ぶという聴覚的比喩でもって表されると言うことは、考察に値することである。そこで、呼ぶということを、認識においてたいてい上位のものとされるところの見るということと比べてみるならば、以下のことが指摘できる。すなわち、見るということが、対象に対して何らかの能動的な働きをもつという含みがある(すなわち現前する対象があるとして、それを見ることも見ないこともできる)のに対して、聞くということは受動的側面が強い行為(すなわち呼ばれたということの内には直接的にであれ間接的にであれすでに聞くということが含まれている)であるということが一つ。さらに、それぞれの行為のもつ内面性に関してであるが、見るという働きが何によって処理されるのかと問うならば、それは知性に基づいて処理されると答えられよう。しかるに、聞くという働きは、勿論知性の処理対象でもあるが、しかし実は知性を超えるところのより内的な原理に基づいているとはいえないだろうか。つまり、聞くということは、見るということよりもより根元的な体験なのではなかろうかということである。 そして以上のことより、神と被造物との関わりが見えてこないであろうか。

それに関して、アウグスティヌスの『告白』が手掛かりとなる。『告白』第10巻第6章において、アウグスティヌスは、様々の被造物に対して自分の探している神について尋ねる。そして、すべての被造物は、それは自分ではなく、自分たちを造りたもうた方であると答える。そしてそのあとすぐに、アウグスティヌスは次のように続けるのである。「私の問い、それはそれらのものについての私の観想であり、それらのものの答え、それはそれらのものの有する美しさでした」。以上の部分からわかるのは、被造物の有する美がアウグスティヌスによる神探求に何らかの答えを与えた、すなわち、感覚で捉えたところの美が、アウグスティヌスにおけるより内面的な部分に影響を与えたということである。そしてそれをアウグスティヌスは、外なる人の奉仕によって内なる人が知る、と表現するのである。しかしながら、美を見ることができるものすべてが、それの意味する答えを知りうるわけではない。それはなぜか。そこでアウグスティヌスは次のように述べるのである。「外部からうけいれた声を内部において真理とくらべあわせてみる者だけが、その声を了解できるのです」。これはつまり、感覚によって美を捉えるということが、即その意味するところを捉えるということにはならないということである。これより、感覚で捉えるところの美的体験においては、その明らかな求心力は決して否定し得ないものであるが、さて自分が何に惹かれているのかと考えるならば、その答えは隠されたままになっているのである。

美は呼びかけるが、本当に呼んでいるのは何かを示しはしない。そのように表現するならば、実は呼びかけるのは美ではないということになってしまう。そこで、ディオニシウスの言葉を引用することにする。「存在するものにおいては、美しいものと美とは、分有するものと分有されるものの観点から区別されている。つまり、美を分有するものが美しいものと呼ばれるのである。これにたいして、美はすべてを美しいものたらしめる、第一原因の分有である」。 すなわち、被造物のもつ美しさは、美の分有によるものであり、上述の美の呼びかけに関することは、次のように言い換えられねばならない。つまり、美は被造物の美しさによって呼びかけるが、その中に自らを明らかに示してはいない。しかしながら、美は、美しいものを通して自らの呼びかけを耳にするものを、自らの方へ引き寄せるのである。

ところでトマスは、「(ディオニシウスは)神はすべてのものにおいて調和と輝きの原因であるかぎりにおいて美を伝達する、とつけ加えることによって、美の本質がどのようなことに存するかを示している」、と言う。これはすなわち、われわれは、大きさおよび配置において均整がとれた肢体、および輝くばかりの肌色をもっている人を美しいと言うからである。したがって、美の性質が、調和と輝きでもって説明されるということになる。そしてトマスは、事物のうちには二様の調和がみいだされると言う。その一つ目は、もろもろの被造物が神にたいしてもつ秩序づけに基づく調和である。ディオニシウスが、「超実体的な美しいものである神は、すべての被造物にたいして、それぞれの固有性にしたがって美を与えるゆえに、美と呼ばれる」 というように、神においては美と美しいものとが一致しているのであるが、そのような神が呼びかけることによって、呼びかけられたものは神へと向かうようになるのである。すなわち、ここにおける調和とは、被造物が進むべき方向を指し示された、つまり秩序づけられたが故の調和であり、神を目的とした直線的な調和と言えるであろう。そしてもう一つの調和とは、被造物相互間の関係に基づく調和である。この調和は、そこにおいてトマスがディオニシウスの「神はすべてを、すべてにおいて同一のものに向けて集める」という言葉を引用していることから、第一の調和と切り離して考えることができないということがわかる。すなわち、第一の調和のところで述べられた秩序付けとは、それぞれの被造物がそれぞれになされるのではなくして、それぞれが他との関係において秩序づけられるのである。そしてそれは、新プラトン主義の、「上位のものは分有にもとづいて下位のもののうちにあり、これにたいして、下位のものは何らかの優越ということを通じて上位のもののうちにあり、こうしてすべてがすべてのうちにある」、という見解を通して理解されるのである。

以上のように、調和が美の本質に属するものであることが示された。そしてさらに、トマスはディオニシウスの「この美しいもの(すなわち神)からして、存在がすべての存在するものに到来する」という言葉を解釈する。すなわち、事物がそれによって存在をもつところの形相は、すべて、神的な輝きの何らかの分有であることから、上のことが帰結するというのである。 ここからして考えられるのは、すべて存在するものは美を分有している、つまり美しいものであるということである。それゆえ、いかなる被造物も、他の被造物にたいして呼びかけているということになるのである。しかしながら、前述の通り、その呼びかけを耳にしたとしても、必ずしも神に対する秩序付けがなされるとは限らない。あるいは、そのような場合、呼びかけを聞いていることにはならないのであろうか。すなわち、感覚的には呼びかけを聞いていても、実は内なる人には届いていないということも考えられるのである。輝きという言葉によって示されるように、美は存在を明るみに出すものである。そのような美が絶えず呼びかけているにも関わらず、それを聞くことができないとはいかなることか。それはすなわち、人間が本性にしたがっていないということを指し示すものであるのかもしれない。(1996/01/23)